鹿写真家 石井陽子さんのコラム

しかしか歳時記 1.
一月には、まっさらなノートに書き始める時のような、ちょっとした気持ちの高まりを感じます。
数年前のお正月、久々に書き初めをして「鹿を極める」と記しました。今年も目標は変わりません
が、鹿の写真を撮り始めて 10 年目という一つの節目を迎えます。


興福寺中金堂の前に立つ鹿 (2020年1月19日 撮影=石井陽子)

2011 年 3 月、久しぶりに奈良を訪れた私は、カメラを手に早朝の街に出かけました。そこで見かけ
たのは、ホテルの前で頭を突き合せて戦う雄鹿や、交差点の真ん中に凛と立つ鹿のカップル。それ
は東日本大震災の 2 週間後のこと、誰もいない通りを歩く鹿の群れが、TV で見た福島の避難区域を
さまよう牛たちの姿と重なりました。その時、人が消えた街を鹿が自由に闊歩する世界をカメラを
使って描いてみよう、と閃きました。

もちろん現実の奈良には、鹿と共生する心優しい人々が住み、鹿との触れ合いを楽しむ旅人たちも
います。でも、フレーミングとタイミングで鹿しか入らない一瞬をカメラで切り取ると、「鹿の惑
星」ができあがるのです。

私はこのプロジェクトに夢中になり、神奈川県から奈良に通い始めました。正直に言うと、それま
で鹿に対して特別な感情はなく、一番好きな動物は猫でした。しかし、今ではすっかり「しか派」
になり、ジュエヌさんの鹿モチーフのアクセサリーやスカーフを愛用しています。

奈良の鹿は、春日大社の神鹿として古くから大切にされてきました。
1 月 17 日まで奈良国立博物館で開催された「おん祭と春日信仰の美術」、今年は「神鹿の造形」と
いう特集が組まれました。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗り鹿島神宮から春日大社
へと向かう姿を描いた「鹿島立神影図」や、神鏡や榊をのせた神鹿が描かれた「春日鹿曼荼羅」な
ど神鹿信仰から生まれたさまざまな美術品が並びました。


奈良市北京終町の春日講 (2019年1月21日 撮影=石井陽子)

ここに飾られた一幅に奈良・北京終町(きたきょうばてちょう)の「春日鹿曼荼羅」があります。
京終では今も毎年 1 月 21 日に春日講が行われ、当家の床の間にこのレプリカが掛けられます。竹枠
に杉の葉をくくって床の間の上下を飾り、しめ縄や御幣、ナンテンなどをあしらって、お神酒や米、
野菜などをお供えします。宮司さんが祝詞を奏上した後、講員の皆さんは春日大社に赴き、鹿たち
にせんべいをあげ、ご祈祷を受けます。京終から春日大社に奉納されたもっとも古い燈籠は 400 年
前まで遡るそうです。一昨年と昨年、一連の儀式を撮影させていただき、神鹿の伝統が今も受け継
がれていることに大変感銘を受けました。

昨年 2 月からのコロナ禍で、奈良を訪れる観光客が減り、鹿たちの営みにも変化が起きたと言われ
ています。人の行動が変われば、鹿たちの暮らしぶりも変わります。それは、鹿と人間が共生する
奈良の街で進んでいる壮大な社会実験なのかもしれません。
遠く神奈川から鹿たちに思いをはせつつ、奈良を再訪できる日を心待ちにしています。

 

石井 陽子

2011年3月、久しぶりに訪れた奈良で、早朝の交差点に堂々と立つ鹿の姿に
インスピレーションを受けて、人間の決めた境界線を軽やかに越えて街を
闊歩している鹿たちを捉えたシリーズを開始。現在は、北海道から沖縄まで
全国に撮影エリアを広げ、神の遣いから害獣まで棲む場所によって変わる鹿
と人間のアンビバレントな関係を描いている。2015年リトルモアより写真集
『しかしか』刊行。2016年に銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロンで写真展
「境界線を越えて」を開催。フランス、ドイツ、ニュージーランド、マレーシア
など海外でも多くの展示を行なってきた。山口県生まれ。神奈川県在住。

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